
「豊かな海」の評価方法を探る
瀬戸内海における沿岸調査事業
瀬戸内海では、従来の水質中心の環境管理から、より総合的な「豊かさ」という概念を取り入れた新たな評価が求められています。本プロジェクトでは、文献調査、現地調査、有識者ワーキンググループを通じて、生物の多様性と生産性を捉える新たな評価手法を検討。持続可能な海域管理に向けての基盤づくりとして基礎調査と構想検討を行いました。
Background
複雑化する海域環境の課題に応えるための新たな評価軸の模索
瀬戸内海の環境保全は、水質汚濁防止法に基づく排水規制や、リン・窒素などの栄養塩類に対する総量規制などを通じて、水質改善と一部の水産資源の回復といった成果を上げてきました。
しかし、近年では栄養塩類の偏在や海域の貧栄養化が確認されており、生物の多様性や生物生産性の確保といった「豊かさ」を実現する上で新たな課題が浮き彫りになっています。
こうした背景のもと、平成27年には瀬戸内海環境保全特別措置法(通称「瀬戸法」)が改正され、「豊かな海」の実現が基本理念として掲げられました。さらに令和3年の改正では、地域の実情に応じた柔軟な対応を可能にするため、「栄養塩類管理制度」が導入され、関係府県が栄養塩類管理計画を策定する制度的基盤が整備されました。これまでの評価手法は水質や一部の有用種の多寡に依拠していたため、生物の多様性や生産性といった複雑な視点から検討を進める必要があります。
特に瀬戸内海においては、藻場・干潟の存在状況、気候変動の影響、地域の利用形態の違いなど、多様な要因が複雑に絡み合っているため、「豊かさ」の評価には空間的・時間的な多様性を考慮した総合的な手法が求められます。さらに、令和8年度末には改正瀬戸法の施行から5年を迎えることから、制度導入の効果検証を見据えた科学的知見の蓄積や検討が急務となっています。
Output
多様なスケールで「豊かさ」を捉える評価手法の設計
こうした背景を受け、環境省は令和6年度に「豊かな海の実現に向けた生物多様性・生物生産性の評価方策検討業務」を実施。瀬戸内海の広域的な環境保全から個別事業者による藻場・干潟の保全活動まで、多様な海域スケールに対応した評価手法の検討と、将来的な栄養塩類管理制度の効果検証に向けた科学的基盤の構築を目的としました。
ロフトワークは、本業務において、文献調査と、現地調査計画案の作成と実地による検証、有識者によるワーキンググループの企画設計・運営を実施。「豊かさ」という抽象的な概念を、「生物の多様性や生産性を捉える新たな評価手法」として具体化するとともに、科学的・社会的両面から議論するうえでの基礎となる報告書としてまとめました。

Process
栄養塩類の影響を多角的に整理する文献調査
水質や底質、生物群集への栄養塩類の影響に関する国内外の知見を、行政文書・研究論文・調査報告から体系的に収集・整理しました。特に播磨灘や広島湾を中心とした過去10年の調査実績に基づく科学的エビデンスの網羅を目指しました。これは現地調査計画の設計や評価手法の検討に必要な裏付け情報を整えることが目的です。また、現場で測定が難しい項目を文献に基づく知見からの評価を試みました。このため、100件を超える文献から対象海域・評価対象・適用スケール別に情報を体系的に分類しました。さらに栄養塩供給手法(下水処理水の高度管理運転、海域への直接施肥、海底耕耘、ダム放流など)ごとの影響範囲や有効性を比較分析しました。これにより、海域の水質や底質などの海域の生態系に対して影響の強い環境条件や、効果的な供給手法の特徴を明らかにしたほか、豊かさを評価する生物種の候補には、移動が難しく環境影響度の高い生物が有効であることを提案し、具体的な生物種として底生生物をあげてモニタリングの必要性を提示しました。
地元漁師・大学研究者との協働で行われた現地調査
瀬戸内海の広域的な環境把握を目的に、文献調査・過去調査結果を踏まえて現地調査計画案の作成、検証をしました。調査海域は栄養塩類濃度のデータが長年蓄積されている広域総合水質調査地点や公共用水域調査地点がある、広島県寄島町沿岸海域を中心とし、底生生物調査を実施しました。
調査は寄島町漁業協同組合の底曳網漁船で行われ、地元漁師の大室氏の操船により、7つの調査地点で底生生物を採取しました。底曳網漁は海底を引きずるように網を曳き、そこに生息する多様な生物を漁獲する方法です。この漁法の特性を活かし、通常は商業的価値のないとして陸に揚げられない混獲物を分析することで、海底に生息する多様な生物相を把握することを目指しました。
調査の目的は、栄養塩類管理制度の効果検証に資する生物種の妥当性確認と、モニタリング設計検討のための基盤構築です。調査中には仮同定を行うとともに、多様度や生物種の出現状況に応じて柔軟に地点の調整も実施。専門分野ごとに5つの大学研究施設(東京大学、三重大学、名古屋大学、広島修道大学、琉球大学)と連携し、それぞれの専門性を活かした同定を行いました。
その結果、豊かさの評価として、移動性の低い種を中心とした生物候補群の特定や、潮下帯の環境特性に応じた評価の実用可能性が確認されました。また、地域漁業者との協働による市民科学型モニタリングへの応用可能性についても、一定の展望が得られました。



現地調査手法の選定が功を奏し、絶滅危惧種が多数発見される

調査海域では岡山県レッドデータリスト2020に記載されている絶滅危惧種も多数確認されるとともに、文献調査で整理した絶滅危惧種の多くが実際に確認されました。
たとえば、岡山県のレッドデータリスト2020に絶滅危惧種として登録されているイタボガキやツヤガラスなど、生体で確認された種もあり、調査に協力いただいた漁業関係者の方から、近年急激に増加しているというコメントも得ました。近年の水質の変化によるものなのか、調査方法によるものなのか、あるいは他の理由があるのか、さらには、これらを明らかにするために、どのような調査手法が適切か、後日有識者を招いて開催されたワーキンググループでも議論が行われました。
「豊かさ」の評価や調査手法を検討するワーキンググループの実施
現地調査計画や文献調査の成果を基に、学識経験者や実務者など有識者を招いてワーキンググループを2回開催し、豊かさの評価方法や今後の調査の方向性について議論を重ねました。初回のワーキンググループでは、瀬戸内海における栄養塩と生物の関係および生物多様性の評価に資する生物の顔ぶれに関する文献調査、さらに、これらを踏まえて実施した現地調査についての報告と、これらから得た仮説に対して有識者から意見を得ました。たとえば、「絶滅危惧種が数多く確認された」という調査結果に関しては、「レッドリストの情報は専門家の主観やバイアスにも左右される。継続的なモニタリングと情報更新が重要」「単一の指標に頼るのでなく、底生生物の多様度や優占種、水産有用種など複数の指標を組み合わせるべき」といった意見が交わされました。
また、2回目のワーキンググループでは、市民とともに実施するモニタリング手法に関して有識者から意見や指摘をいただく機会を実施しました。ここでは、地域において行うモニタリングにおける目的や手法については、市民がモニタリングに参加する際のモチベーションの設計や情報の網羅性についての考え方など、行政主動で行うモニタリングとは異なる視点で設計することの重要性が指摘され、今後モニタリング手法を設計していくにあたっての重要な視点を得ました。

おわりに|「豊かさ」に向き合い続けることについて
環境省では、2026年度に予定されている瀬戸法改正の効果検証に向けて、今後も継続的なモニタリングと評価手法の精緻化が進められる予定です。
経済や文化の豊かさを守りながら、環境も保全していくということの難しさ。環境省が本プロジェクトのテーマを環境評価ではなく「豊かさの評価」としたのは、その一番難しく本質的なテーマに正面から向き合うということが現れていると思います。
たとえば、水質改善が貧栄養化を招く(=一部の水産捕獲量の減少に影響する)という因果関係が指摘されているように、人々の経済活動や文化と、生態系が複雑かつ多面的に影響し合っているのです。ロフトワークも、プロジェクトを通じて、科学的な視点と地域の実践的な知識や知恵、さらに、多様な専門性を融合させた複合的なアプローチを取り入れながら、地域の方々と一緒に「豊かさ」を考えることが重要であることを改めて認識するとともに、このプロジェクトを通じて「豊かさ」という概念を具体化するための知見を得ました。
ロフトワークはこれからも、グローバルなネットワークやオープンコラボレーションなどの多様な視点から知識を生み出すアプローチや、システミックデザインなどのデザインプロセスを組み合わせながら、持続可能な社会の実現に向けた新たな価値創造に挑戦し続けます。
Credit
■プロジェクト基本情報
業務名:令和6年度 豊かな海の実現に向けた生物多様性・ 生物生産性の評価方策検討業務
クライアント:環境省
プロジェクト期間:2024年12月〜2025年3月
■体制
- 株式会社ロフトワーク
- プロジェクトマネジメント:片平圭
- 文献調査:川口和真、国広信哉、吉田真貴、吉田日菜子
- 現地調査:大西陽、川口和真
- ワーキンググループ企画実施:浦野奈美、片平圭
- プロデュース:大西陽
- 調査パートナー
- 船上調査協力:大室欣久(寄島町漁業協同組合)
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